入院日記が更新されました。お伊勢参りの続きです。
正殿の周りは、歌舞伎の「八百屋お七」の舞台面にあるような柵が二重にあり、内側に玉垣が二重に配置されていて、天皇陛下、皇室、国会議員、一般と、拝礼の場所が決まっている。
柵の木戸をくぐり中へ入ると大きな玉砂利が敷き詰めてあるが、和装なので雪駄を履いて歩くと、とても歩きにくかった。が、苦労して所定の拝礼の場所へ辿り着くと、何となく世上の汚れが落とされたような気持ちになる。
次に内宮へ車で向かった。五十鈴川、又の名を御裳濯川(ミモスソガワ)といい、歌舞伎のセリフに時々出てくる川の近くで車を降り、川に架かっている宇治橋を渡る。細石が綺麗に掃除され、広々とした参道はさすがに重さと上品さが漂い、遠くには丘陵ぐらいの高さの山々が、山笑う季節を語り掛けてくる。
案内して下さった方が山々の説明をして下さったが、
「ハァー。」
「へェー、ホゥー。」
と生返事しただけで、何も憶えていない。
日陰のない広大な参道をしばらく歩くと右側に五十鈴川の川辺が見えてくる。ここが御手洗所といい、禊(みそぎ)をする場所である。そこを過ぎ、左へまがると樹齢何百年もあろうかと思える巨木が参道の両側から空を覆う。神社の参詣の雰囲気から陵(ミササギ)への参拝のような気分に変わる。参道は長くおそらく1キロメートル近く歩いて正殿に着き、外宮と同じように参拝した。
正殿を見ると、下のほうは玉垣で見にくいが、上部はよく見える。屋根の両側に千木と書く角のように破風から交差して天に伸びる装飾された板が伸び、棟には魚の鰹に似ているところから、鰹木という装飾された木の棒が棟から直角に出ている。芝居通の方なら盛綱、石切梶原、実盛など時代物の分別ある武士を表現するカツラに載っている生締という髷(マゲ)に似ていると云った方が分かり易そうだ。この鰹木が女性の神である天照大神が祭られている正殿の棟には10本並んでいる。一方男性の神である豊受大神の正殿の棟には9本になっている。数字の偶数が陰を表し、奇数が陽を表すという。
正殿の敷地の隣には同じ広さの空き地がある。これは式年遷宮といって、20年ごとに総檜造りの新しい神殿を造り大神にお移り願う為の新殿造営用の空き地である。
解体されて出来た檜の木材は、貴重で手に入らないらしいが、ある踊りのお師匠さんの稽古場の舞台はこの檜で造られている。その舞台で稽古をして頂いた事があるが、やはり素晴らしい檜であった。それぞれの仕来たりや作法の詳しい謂われも、意味も知らないが、一つ一つの意味をじっくりと調べたら面白いだろう。
参詣を終えて参道を下がって行くと、全くの偶然だが、官休庵の当代の宗匠が献茶をなさっているので、是非顔を出して頂きたいとのお誘いがあった。こんな偶然あるものかと驚いたが、喜んでお席にうかがった。
私は、当代の不徹斎千宗守宗匠とは同世代であり、先代の有隣斎には一方ならぬご恩にあずかった。先代は無類のお芝居好きで、よくお芝居を御覧になり、後で御意見や御注意をお手紙で頂いた。その手紙は今でも大切に持っている。また市川家に伝わる歌舞伎十八番『助六由縁江戸櫻』は、河東節という浄瑠璃にのって助六が出端の所作をするが、この河東節は舞台の御簾内で旦那衆が語るのが吉例となっている。「助六」が出ると、嬉しそうな顔で必ず御出演くださり、終演後ときどき御茶屋さんに誘っていただき、差しで貴重なお話を聞かせていただいた。
私にとっては大切な、懐かしい思い出である。その宗匠も平成11年に亡くなられ、夏に告別式が執り行われた。この時私は大阪で前々から約束の仕事があり、その仕事を済ませ、急いで京都の武者小路の官休庵に伺ったが、すでに出棺した後であった。お留守番の方のお話では、出棺のとき河東節「助六」の浄瑠璃が流されたと聞かされた。
勿論御当代の配慮であろうが、ほとんど片付けられ整理されている、がらんとしたお座敷の広さの静寂が、より寂しさを黙して訴えかけて来た。
宇治橋の近くにあるお茶席でお持て成しを受け、その日の内に東京に帰った。