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成田屋通信
2005年11月29日
入院日記25

入院日記が更新されました。火星大接近の思い出です。  月読大神も大分昇ってきているだろうが、窓の軒にかかってもう見えない。私は夜空を見上げることが多い。星や宇宙に興味を持ったのは、1956年(昭和31年)の火星大接近である。
 夜、星空を眺めるといつの間にか、ひと際赤く輝く星を見つけた。
 初めは何であの星だけ赤いのだろうと思っていたが、その赤い星が大接近してきた火星であることが分かった。
 その頃の私は、SF小説で有名なH.G.ウェルズの『宇宙戦争』に出てくるタコ型火星人の存在をある程度信じていた。
 私は、中学生になるまで小遣いを貰ったことがない。子供のとき近所で紙芝居があっても、小遣いがないので紙芝居屋さんの売っている駄菓子が買えない。
 それでも紙芝居が見たいので近づくと、紙芝居屋のおっさんは嫌な顔をする。やむなく離れる。何か爪はじきされたような寂しい思いをした。
 あまり物をねだった覚えはないが、火星を見てみたい思いが募り、父に望遠鏡を買ってほしいとねだると、あっさり承知して50ミリの屈折望遠鏡を買ってくれた。元来機械好きであったから、父も望遠鏡を覗いて見たかったらしい節がある。
 昼過ぎから望遠鏡を組み立て始めたが、夏の日は暮れるのが遅い。やっと暗くなり火星が赤く現れた。早く大きな火星とその運河といわれる模様を見たいので望遠鏡を火星の方角に向けて、倍率の高い接眼レンズ付けて覗いてみたが、簡単に見えるものではなかった。望遠鏡の中を火星らしい赤い玉が時々よぎるがその玉を捕捉することができない。鉄砲の標準を見て的を撃つように、望遠鏡の筒を肉眼で見える火星に合わせても、星達はゆっくり東から西に動いているし、望遠鏡は逆に像を結ぶので見た目と逆の方向へ動かさなければならない。あまり上手くいかないので、倍率の低い接眼レンズに変えて覗いてみると、肉眼で見ているより星の数が多く見えるが、赤い星の大きさは肉眼で見ても、望遠鏡で見ても変わりがなかった。
 それでも、9月7日の最接近までにはどうやら慣れてきて、火星を高倍率でも捉えることが出来るようになった。ぼけてはいるが予想より大きく見え、運河らしき物も見えた。
 「見えた。」
 「見えないじゃないか。」
 「アッ見えたすごい!」
と家中大騒ぎで興奮した。 
 その後15年程経ってから、15センチの反射望遠鏡を購入した。
その頃になると、ただひたすら望遠鏡を覗いていた時とは違い、望遠鏡は本体も大事だが、地球の地軸と自分のいる緯度に角度を合わせ、地球の赤道を宇宙の果てまで延長させた天の赤道という架空の線に平行に正確に動かす赤道儀という器械が大切、という知識があった。これにより大騒ぎで星を追い駆ける苦労がなくなった。また、大きく見えた火星も、口径の大きい望遠鏡だと逆に小さく見える。これは分解能が高くなり、ぼけずにはっきりと見えるからだ。
 だが、例えぼけていようが大きく見えた火星に興奮し家中大騒ぎになり、率先して見たいのだろうが、わざと無関心を装って時々チラリと望遠鏡を覗いては家の中に入ってしまっていた父の姿が、やはり印象深く思い出される。
 2年前の平成15年にも火星の大接近があった。この時は古今類のない大接近で長い間火星は赤く輝いていた。
 火星大接近の翌年、昭和32年10月4日にソビエトの人工衛星スプートニクが打ち上げられ、次の年は米国があわててエクスプローラを打ち上げ、本格的な米ソによる宇宙開発戦争が始まった。その後、天文学も他の学問の発達と同時に飛躍的発展を遂げて、宇宙開闢の謎に日々迫ろうとしている。
 スペースシャトルによって打ち上げられたハップル望遠鏡が、大気の影響を受けず撮影した鮮明な画像を送ってきては、美しい宇宙の神秘を見せてくれていたりと、実に興味深い時代に生まれ合わせたと感謝している。