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成田屋通信
2005年11月10日
入院日記21

入院日記が更新されました。今回は、小松市での思い出です。  今年の夏、小松市に飛び立った。羽田空港から1時間弱で石川県の小松空港に到着し、車で5分足らずで市内に着く。
 小松市には、歌舞伎十八番『勧進帳』の舞台となった安宅ノ関がある。
 昔の安宅ノ関は、海岸線より数百メートル沖にあり、今では日本海の波の下に沈んでいる。海岸近くにある安宅住吉神社の境内の砂浜には、遺跡の石碑と七代目松本幸四郎、十五代目市村羽左衛門、六代目尾上菊五郎がモデルと思われるブロンズ像が、歌舞伎の舞台と花道を模した石舞台の上に三体並んでいる。
 今から18年前、この安宅ノ関を義経主従が800年前に通過したのを記念して、地元の青年会議所(JC)の有志の方々が中心となり、八百年祭が盛大に行われた。
 記念行事の一環として、歌舞伎十八番の内『勧進帳』を上演したいとの相談を受け、私も喜んで協力させていただき、この時は『勧進帳』の弁慶を勤めた。
 これがご縁となり、以後たびたび小松へ伺うようになった。
 そもそも、小松は北陸道の要衝(ようしょう)であり、近くには北陸で最も古いとされる粟津温泉を始めとする加賀温泉郷が控えており、中世以前から商人などの交流によって京都の文化の影響を強く受けている土地である。
 また、今回の公文協の海老蔵襲名で上演されていた『実盛物語』の斉藤別当実盛は、この辺りで活躍し木曾義仲と一戦を交え『実盛物語』に出てくる手塚太郎光盛に討たれたと伝えられている。
 小松市の近郊にある多太神社には、実盛着用の兜があり、実盛を演じている海老蔵も小松公演の開幕前に多太神社に寄って、この兜を見て劇場入りした。
 江戸時代に入って、絹によって財を成した絹商人や町衆によって、曳山、すなわち祭礼の山車が寄贈された。
 そして、今でも毎年5月の「お旅まつり」の際には、山車の上で小学生の子供達が地元に縁のある『勧進帳』や『絵本太功記十段目』などの歌舞伎を上演する。
 お旅まつりは、莵橋神社(お諏訪さん)本折日吉神社(山王さん)のお祭りで、約350年前に始まり、町衆の祭りとして曳山が作られ歌舞伎狂言が上演されるようになってから240年余の歴史をもつそうである。
 8町内のうち2町内ずつ輪番で自慢の曳山を町内の町角に出していたのが古い伝統のようであるが、今はお祭りを盛り上げるために、8町内すべて曳山を組み立て町内に飾り、2町内で子供歌舞伎が演じられている。
 5月にお旅まつりを見に行った。
 五月晴れの爽やかさと、5月にしては強い太陽が町家の影を落とし、昼下がりの気怠さが古い町並みに漂う。
 あまり人影のない街角を曲がると、人集(だか)りがあった。
 ハンカチを頭に載せたり、日傘を差したり、しゃがんだり、思い思いの格好で、モノトーンの町並みの真ん中の、一際鮮やかな色と彫刻が施された曳山を見上げている。
 町内の若い衆が祭りを取り仕切るのが仕来りとなっていて、役者の子供達の面倒を見たり、裏方に徹して忙しく立ち働く。
 緋毛氈が掛けてある縁台には、すっかり扮装した子供役者たちが足をブラブラさせながら座っている。
 やがて、20代の町衆の男性が、身を屈めて子供と目線を同じにして何やら注意すると子供は素直に頷き、促されて大勢の町の人たちが今や遅しと待ち構えている舞台に出て行った。
 こんな光景は、いまの東京ではおそらく見られない。
 地域の人達が綿々と築いてきた歴史と文化、人々の繋がりと教育、全てがこの光景の中に凝縮されていると思う。
 そして、実際の舞台を拝見し、旨い下手ではなく、町衆の熱意に支えられて無邪気に演ずる子供役者たちも、無事に終わるようにと念じながら舞台に食い入りヤンヤの喝采を送る町の人々も両方が輝いて見え、目頭が熱くなるのを覚えた。
 改めて歌舞を生業とする者として、この光景を焼き付けておかねばならない、と肝に銘じた。
 ただ、少子化とドーナッツ現象で旧町内に住む子供達が激減しているため、郊外に住む子供達に手伝って貰わなければならない現状があると聞いた。
 地域の発展と伝統の誇りとを守るために多く人々が汗を流している姿を見て、微力ながら、私の出来ることで少しでもお役に立つ事があれば、手伝わせていただきたいと思った。