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成田屋通信
2005年11月01日
入院日記18

入院日記が更新されました。今回の再入院の治療が始まった頃のお話です。  寛解に導入するため、最大で60日間の治療に入った。80日間世界一周より短いが、気球に乗って、秋の日差しの中をふわふわと長い旅に出るようだ。
 治療は1日1時間の点滴だけである。通院でもよさそうだが、今回使う薬は人によっては心臓に負担がかかる可能性があるので、通院は許されず入院のまま行なわれる。
 午前10時ごろから、携帯用の心電図をとる機械を胸に取り付けられ、ナースステーションのモニターで看護師さんによる心臓の状態の監視のもと約1時間、生理食塩水に亜ヒ酸が溶け込んでいる薬の点滴が始まる。
 亜ヒ酸は毒薬である。皆さん亜ヒ酸を使っていると言うとびっくりするが、亜ヒ酸は少量なら強壮剤となり、多くの滋養、強壮剤にはも使われている。
 会う皆さんに「病人じゃないみたい。」と、よく言われる。
 社交辞令かも知れないが、私は鵜呑みにして「そうなんです。」と、答える。
 何しろ規則正しい生活を続けている上に、酒もタバコものまない。
 タバコは5年前に止めたので、入院して禁煙生活を送っても全く苦にならない。
 もし吸っていたら、ずいぶん苦しいだろう。内緒の話だが、病棟の陰や庭の片隅には入院患者がたむろしている所がある。
 何をしてるのかな、と覗くと、点滴台を持ったり車椅子に乗った患者さんが、タバコの煙を目一杯吸い込んで、吐くのが名残惜しそうにゆっくりとはき出し恍惚の顔をしている。よほど禁煙が辛いのだろう。しかし、パジャマ姿の人たちが、病棟の隅で煙を立ち昇らせているのは、奇妙な景色である。
 人のことはさておいて、病気なのに健康そうなのは、規則正しい生活と亜ヒ酸のお陰なのかも知れない。
 私に取り付けられている心電図送信機は、私の病室からナースステーションまで距離があるためか、機械自体が悪いのか、電波がうまく飛ばないらしく、看護師さんが調節のため何回も病室を出入りする。
 やっと上手くモニターされ、点滴が始まった。
 しばらくすると携帯電話が鳴った。個人が携帯電話を持ち歩くなど、一時代前なら考えられないことだが今は当然のこととなり、携帯電話がなければ不便でならない人間にいつの間にかなってしまった。
 入院生活も、以前は世の中から隔離された状態だったが、今は通信手段の充実で社会の最前線にいるのとあまり変わらないようだ。
 電話を取ると・・・電話を取るという表現も古いかも知れない・・・携帯の受信ボタンを押すと、家内だった。毎朝必ず電話をかけてきてくれる。
 普段は朝の挨拶と取り留めのない話が多いが、今日は仕事の話であった。
 役者の家では女房と仕事の話をしなければならない事が多く、意見が噛み合わない場合もある。話している内に仕事の処理で不満なことがあり、頭に血が昇った。
 しかし、病院なので声を殺しながらも口角泡を飛ばしていたら、病室のドアが開いた。看護師さんが一寸覗いて、すぐ消えた。
 点滴が終わって、処理にさっきの看護師さんが来たので聞いてみた。
 「さっき覗いて、すぐに行ってしまったのはどうしてですか。」 
 看護師曰く、
 「実は、ナースステーションで堀越さんのモニターを見ていたら、急に脈拍が150に上がったので、驚いて様子を見に来たら、お電話でお話をなさっていたので、そのまま戻りました。」
 「150!?そんなに高くなることがあるんですか。」
 「激しい運動をすればその位にはなります。」
 「そうですか。」
 すぐに家内に電話をした。
 「おいおい、夫婦喧嘩を看護師さんにモニターで見られたよ。」
 「どういうこと??」
 「心電図送信機を着けながら点滴をしているので、さっきの言い合いで脈拍が150に上がって、看護師さんが駆け付けたんだ。」
 携帯の向こうで大きな笑い声がゲラゲラと聞こえ、
 「点滴中は仕事の話はやめましょう。」
 次の日、午前の点滴の時も相変わらず心電図送信機の調子が悪かった。
 夫婦喧嘩を覗いたモニターはどんなものかと、点滴台と心電図送信機をぶら下げて、ナースステーションへ行き、モニターを見ると四つの波形が映されていた。
 「これは、どうなっているの?」
 看護師さんに聞くと、
 「上の二つが他の患者さんの心臓の波形と呼吸数で、横の数字が脈拍です。下の表示が堀越さんのです。」
 見ると、なるほど【ホリコシ】と表示されている。
 上の患者さんの波形を見ると、心電図でよく見かけるドッキンドッキンと大きな波と小さな波が綺麗に次からつぎへと映し出されて、呼吸もゆっくりとゆるやかな波が繰り返し流れている。
 一方、【ホリコシ】の表示のモニターを見ると、心臓の波形は幅も小さく、ただ同じ調子の波が弱々しく連続している。逆に呼吸の波は振幅の幅が広すぎて、四角ばった波がバラバラと出ている。
 「看護師さん、これどうなってるのですか?」
 その看護師さんはモニターを覗き込み、
 「ああ、電波の調子が悪いようですね。」
 「悪いと言ったって、患者は目の前にいるのだから、電波はちゃんと届いているはずでしょ?」
 もう1回モニターを覗くと、モニターの波形が無くなり、一本の棒になってしまった。
 「あ、この患者さん死んじゃった。」