入院日記が更新されました。40年前のお母様との思い出や、先代の河原崎権十郎丈のお話などです。
食べ物の恨みは恐ろしいと言う。入院生活を長くしていると、普段思ってもいないことが見えたり、逆に分からなくなったり、考えが片寄ったりする。
日常の生活とは違っているので、人の個性がよりはっきりと出てくる。
長期入院の患者さん達の生活に接すると、それぞれの個性に従って比較的に自由に病気と闘う長い時間を過ごしている。テレビを見たり、本を読んだり、ラジオを聞いたりジッとしていたり、その過ごし方は様々だが、テレビを点けている人が圧倒的に多い。
今から40年近くも前になるが、母が入院していた頃、見舞いに行くと、並んでいる病室は静かで、物憂げなラジオの音が微かに聞こえ、夏になると冷房など入ってない病室に夏の風がカーテンを揺らしながら通り過ぎていた。
熱風ではあるが、近頃の耐えられない暑さから比べれば、遥かに優しい風である。
それでも病室に入るとやはり暑い。母はガーゼで顔を拭いたりしていた。
部屋にはテレビも無く、ガランとしていて、少し汚れたような真っ白い壁だけが強く目に飛び込んでくる。
あまりの殺風景さに、私は画用紙に水彩でヨットの絵を描いて渡してあげた。
母はそれをベッドの足元の壁にセロテープで貼り、テープの見えるところをお見舞いにもらった千疋屋の箱にかけてあるリボンで隠していた。
その後、何回も入退院を繰り返したが、今から30年前、私が宮本武蔵の撮影を京都でしていたとき、撮影の合間に東京に帰って見舞いに行くと、別れ際に、母にしては珍しくベッドの薄い掛け布団から細い手を探るように出して、
「手、握って頂戴。」
そんなことを云ったことのない母の言葉に驚いたが、面映ゆい気持ちを隠し、手を握って京都の撮影に出かけた。しばらくして夜中に妹から電話があった。
皆さんの好意で、あくる日の撮影は中止され東京に帰ったが、母は静かにベッドに横たわっていた。昭和50年11月24日没。
昔の人は静かな環境で過ごすことを何とも思はない人が多かったようだが、いまはナガラ族が多い。斯く云う私も、ナガラ族の権現様のように、キーボードを叩きながらテレビを点けている。といって見ている訳ではなから消せばよいが、消せばなにか落ち着かない。
平成8年4月、四国の琴平にある金丸座で、私と今は亡き三代目河原崎権十郎のおじさんと倅の海老蔵(当時新之助)の座組で公演があった。
金丸座は天保年間にできた古い劇場で、木戸銭の語源である木戸は低く出来ている。
朝、開演前の人影もない潜り戸を潜り抜けると、中はかなり薄暗い。時の流れを感じさせる静寂が、芝居を観ながら歓声を上げる江戸時代の町人たちをぼんやりと浮き上がらせるように感じる。
タイムスリップしたような空間の舞台に立つと、いつもの舞台とは違い江戸時代の人間になったような感覚になる。観客の皆さんも、この劇場でしか味わえない雰囲気に満足してくださる方も多いようだ。ただ、昔の劇場なので土間の桟敷の枡が小さく、普段正座に慣れてないお客様は少し大変である。
この金丸座の歌舞伎公演は、澤村藤十郎さんの努力によって実現した。本当に素晴らしい企画であり、この公演が長く続くことを切望している。その彼もいま私と同様に闘病生活を続けているが、早い復帰を祈っている。
昔の雰囲気を大切にしているので、この劇場の公演は夕方で終演となる。
夜、私達は温泉に入り、食事を摂り、後はテレビなどを見て過ごすが、権十郎のおじさんの部屋を覗くと、食事の食器類はすでに片付けられ、座卓の前に座り、目の前に置いてあるテレビも点けずにジッとしている。2時間位してまた覗いてみると、静寂の中、前と同じ体勢で座っていたので、声をかけた。