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成田屋通信
2005年09月29日
入院日記8

入院日記が更新されました。昨年5月のお話です。  平成16年5月1日。十一代目市川海老蔵襲名披露公演が歌舞伎座で始まった。
 自分の襲名ではないが、息子の襲名となれば親は自分の襲名より張切ってしまう。襲名する本人より力が入っていたかも知れない。何しろ市川家にとって、團十郎の名跡と海老蔵の名跡が舞台でぶつかり合うのは約150年ぶりである。それよりも、何よりも、わたしは、私の責任ではないとはいえ、父十一代目團十郎とそのような舞台を勤めることができなかった。
 父もまさか自分が56歳で死ぬとは夢にも思ってはいなかっただろう。これからやりたいことが山ほどあったに違いない雰囲気が、闘病している病室の中にあったし、病院のロビーにあったレストランに記者会見の席を設けて、復帰の計画を記者の方々に滔々と話していた。復帰の中に出来の悪い息子の、十代目海老蔵襲名は自分の手で遣らなければとの想いもあったと思う。
 父の成し遂げられなかったことがいま、子と孫によって具現化できる。私にとってこの上の喜びはなかった。
 その上父の人生、56年と10ヶ月を私は越えた。十一代目團十郎は明治42年1月6日に生まれ、昭和40年11月10日に没した。
 この11月10日は母の誕生日である。二人が一緒に居た頃は「よく飽きもせず喧嘩ばかりしているなぁ」と子供心に思っていた。それでも戦後、結核を患って、病院を出たり入ったりしていた母の所へ、父はけっこう足繁く見舞いに行っていたと聞いてい
る。命日、11月10日をみて、
「夫婦喧嘩は犬も喰わぬか・・・」
 そんな父の56年10ヶ月の人生より私は長生きした。
「親父さん、あなたより長生きしてあげたよ、そして、あなたのできなかった、團十郎、海老蔵が一つ舞台に立つことができたよ。」と、胸を張って報告できる。 
 人は何処から来て何処へ去っていくのか。
 誰も答えは知らないが、みんな同じ経験をして同じ世界に行く事に間違いはないと思っている。そこには生物的意思の伝達方法もなければ、人間が物理として考え造り出した物理的時間も、空間も通用しない世界だろう。現世から見れば想像もできない、異次元の世界だが、いまの喜びを土産に持っていくことはできると思う。
 5月1日の初日から数日して『勧進帳』の弁慶を勤めているうちに、息苦しさを感じるようになり、最後の六法で花道を引っ込んでくると今までサァーッと楽屋に帰れたのが、息苦しくてなかなか動けず帰れなくなった。1ヶ月半前に勤めた弁慶のときは何ともなかったのに、これは歳かなと思っていた。
 舞台の上でも息が苦しくなり、舞台で裏を向いた時に市販の酸素吸入器を使って酸素を吸いながら、何とか勤めあげる状態になってしまった。
 あまりにおかしいので医師に相談したら、とにかく検査をした方が良いとの忠告を受け、9日の舞台を勤めて直ぐに病院に行き検査を受けた。ベッドに横たわっていると家内をはじめ医師団が大勢病室に入ってきた。
「白血病です。直ぐに治療に入ります。」
「白血病?あのー舞台の方は。」
「休演してもらいます。」
 父と母の処へ持ってきたお土産のケーキを玄関先で蹴つまずき、落としてひっくり返したようなものだ。グチャグチャになり台無しになったケーキを眺め、悔しいやら無念やら残念やら哀れやら虚しいやら淋しいやら可哀相やら惨めやら、あらゆる日本語の語彙を集めても、まだ足りないような気分で現実をながめるだけだった。