さらに入院日記の続きです。
窓から外を眺めていると、完全に晴れ上がっていない青空にちぎれ雲が、真夏のようにクッキリと元気よく流れて行くのとは違って、輪郭をぼやかし漂っている。「もう、秋か・・・。」そんな感慨が頭をよぎる。
今度の病院の病室からは、ベッドに横たわって居ても目の前に東京タワーが雄大な姿で迫ってくる。
正確ではないが、多分直線距離で1キロメートル位ではないかと思う。
周りの高層ビル群を眼下に従え、まるで富士山のように自信満々といった風情でそびえ立っている。
それにしても、こんなにまじまじと東京タワーを長い時間眺めていたことがあったであろうかと、ふと思い出してみた。
昭和32年頃、私たち家族は、港区笄町77番地、今の根津美術館を神宮前から来て、少し坂を下った所に住んでいた。
ある日、学校から帰って二階の物干し場に出てみた。
その頃は、まだ東京は平らであって、かなり遠くまで見渡せ、物干しからは朝日が昇って来るのが見えた。そんな平らな東京に、なにやら不可解な足組みのような、工事現場のような物が現れていた。
慌てて下に降りて母に尋ねたら、なんでも今度世界一高いテレビ塔のような物が出来るらしいとのことであった。
それからと言うもの、朝夕時間があるときは必ずといっていいほど物干しに上がっては眺めていた。
男の子というのは、機械類や工事現場が好きな子が多い。
父十一代目團十郎も機械好きで、新しいカメラやテープレコーダーが発売されると直ぐに買って来て、家族がそのモデルやレポーターにされ、私や妹はかなり迷惑を被った。
そして、私もご他聞に洩れず機械が好きである。
青山学院初等部の時、構内でパワーショベルが入った大規模な工事をやっていたので、つい夢中になり、時間の経つのも忘れ眺めてしまった。
しかし、その月は歌舞伎座に子役として出演していたのにハッと気が付いて、慌てて駆け足で家路についた。
半べそで走っていると、向こうから家人が迎えにきて「ぼっちゃんどうしたんですか、早くしないと遅れますよ」と怒られ、手を引かれながら、涙がポロポロ頬を伝わったのを鮮明に憶えている。
東京タワーの工事も随分長い時間眺めていた。しかし、工事は進んでいるのだろうが、遠くからの観察では工事現場は静かで、一向に動きは見えなかった。
150メートルあたりの展望台までの鉄骨が組み上がるまで、かなりの時間が掛かり、その変化の無さに退屈になってきて、暫く見ずにいたが、久し振りに二階の物干し場に出て見ると、展望台の上の部分がかなり出来上がっていた。
高い部分の工事は思いのほか早く、高くなる度に「もっと高くなれ、高くなれ」と、心の中で念じながら眺めていた。
が、ある時最上部がプッツンと切れたような状態で工事が動かなくなってしまった。
子供の感覚では、塔というのはどんどん細くなり、先が尖がった状態になるのが完成と思い込んでいたので、何時また工事が進んでもっと高くなるのかと期待に胸を弾ませていたが、何時までたっても工事は動かず最高部はちょん切れたままだった。
そのうちに、遠くから見ると楊枝の先っぽのような物が出てきたので、「ははぁー、この楊枝のような棒が延びてきて、綺麗に尖がった形になるのだな」と思い込んでいた。ところが、完全に伸びきらない中途半端なところで、またもや工事は動かなくなってしまった。
<つづく>