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團十郎事典 さ行
さ行目次
さ: 才牛 さいぎゅう 三本太刀 さんぼんだち
し: 仕初 しぞめ 壽海 じゅかい 修行講 しゅぎょうこう 常照院 じょうしょういん
す: 翠扇・旭梅 すいせん・きょくばい 筋隈 すじくま
才牛<さいぎゅう>

 初代團十郎には、亡くなる10年前の元禄6年、京へ上っている。当時、新幹線は勿論無し、江戸からの道は大変だったろうと思うが、折角の出張も、荒事本位の芸風は、土地の空気にあわず、評判は決して良くはない。第一「濡れ事不得手息つぎせはしく」と云われ、これは上方人から見た江戸っ児の短所を巧く表現して、今でもあてはまるのではないか。
 ただ、この京上りで初代は一つの宝を得ている。
 御当地の椎本才麿<しいのもとさいまろ>に入門し、俳諧<はいかい>を学んで、その時丁度七夕の牽牛<けんぎゅう>役をしていた事から才牛の名を貰う。役者の俳名のはしりである。当時は作者も兼ねていた彼にとって、この教養を身につけた点は、計り知れぬ得をしている。

三本太刀<さんぼんだち>

 大は六尺、中は五尺、小は四尺の三本の太刀。市川家では、荒事の役をする時、力強さを強調するため、普通二本であるべきを三本、腰にさす。『車引』の梅王丸、松王丸、「国性爺<こくせんや>」の和藤内<わとうない>。
 型の一つにもなっているから、他家の人々は遠慮するか、この通りにする場合はその演出に従いかたがた市川宗家へ挨拶する筈。初代の先祖が武勇の名高い甲州武士で、その風俗の名残りというのが定説。

仕初<しぞめ>

 芝居始めの式。昔は正月三ヶ日、後に元旦のみとなったが、劇場関係者を集め行われる。
 まず、座元・若太夫等「翁渡し」、次に今でいう予告編やPRが、狂言名題と役割とを巻触<まきぶ>れといって巻物を読みあげる。
 ここまでは普通の座でもするが、市川團十郎家の場合は「睨<にら>む」という表現で、三方<さんぼう>を左手に掲げ、右手を胸元に、客席へ向かってぐっと睨む。
 代々の團十郎の大眼玉がよく効<き>いた点も喜ばれたろうが、そこにはやはり悪魔払いの信仰がうかがえる。その後、子役の踊と手打とで式は了<おわ>る。

壽海<じゅかい>

 七男五女の子沢山<こだくさん>、自ら「壽海老人子福長者」と称したのは七代目團十郎である。
 壽海という名は俳名としてその後使われ、九代目も用いていたが、皮肉な事に実子の中に男子後継者はいなかった。
 素人の出で、市川一門に入った門弟格の六代目市川壽美蔵が、昭和24年、大阪で壽海を襲名したのは、やや奇異の感もあった。しかし温厚な人柄と爽やかな舞台、とりわけ澄みわたった口跡<こうせき>で壽海の名を高めたこの三代目を讃えたい。

修行講<しゅぎょうこう>

 新劇など若い人の演技研究会は今も盛んだが、これはプロによる相当高度なそれである。
 四代目團十郎が、深川木場の自宅へ息子の五代目や四代目幸四郎等を集め、演技・型の研究をした集まり。自分で演じなくても、弟子達へ示唆する事で助力した点も評価される。例の初代中村仲蔵苦心の「忠臣蔵」定九郎<さだくろう>の工夫も、ここでの話がヒントとか。
 十二代目團十郎こと堀越夏雄君の日大学生時代、「修行講とその五代目への影響」を卒論の主題に選んだ

常照院<じょうしょういん>

 芝の大門<だいもん>から有名な増上寺の三解脱<さんげだつ>門へ向かい左手にABC会館を眺め、少し手前右の焼鳥屋の横町を入った所に常照院がある。門口に新内協会が建てた『恋娘昔八丈<こいむすめむかしはちじょう>』城木屋お駒墓所という可愛い石碑がある。初代より八代目までの團十郎を葬った所で、もっとも八代目は大阪で急逝したので、一時そちらの一心寺へ納め、後ここへ移されたという。
 九代目からは神徒として青山墓地へ祭る事となる。十一代目は生前中、自らおもむき菩提所<ぼだいしょ>移管の行き届いた整理をしたと、お寺の方から聞いた。如何にも律儀な人柄が偲ばれる。

翠扇<すいせん>・旭梅<きょくばい>

 九代目團十郎の長女実子が翠扇、次女扶伎子が旭梅。
 共に男子の相続者を持たなかった。翠扇は市川三升(死後十代目團十郎を諡<おくりな>される)の、旭梅は五代目市川新之助の妻である。二代目團十郎の妻お才は筆が立ち、翠扇の号を使っていたので、二代目になるこの翠扇は舞踏市川流の伝承を、旭梅は新派の名女優、市川紅梅後の三代目翠扇を遺<のこ>す。
 演劇史上、二人で面白い記録を創っている。共に藤間流の踊稽古に通っていた折、その『枕獅子<まくらじし>』の凌<さら>いを見た九代目が、福地桜痴<ふくちおうち>に書き直して貰い名舞台『鏡獅子<かがみじし>』が出来上がり、二人を胡蝶の役にして初演、これが日本の大劇場で男女が共演した最初である。

筋隈<すじくま>

 初代團十郎が創造し二代目が完成したと伝えられる紅隈の代表。眉頭から額へ、こめかみから頬へ、小鼻のわきから頬骨に沿って、と各々紅を入れた筋は、近代医学を修めた人にいわせると激情時の血管の充血を示してぴったりだとか。
 つまりは力の表現を具体化したといえる。
 神仏の像からもヒントを得たとの説は、あり得る事だ。『矢の根』の五郎など歌舞伎十八番のスター達がこの化粧法。他に「車引」の梅王丸の顔も同様。

※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一

(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)