団菊左<だんきくさ>
明治の歌舞伎界を代表する三名優、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の名前から頭字をとった。
明治36、7年頃あい次いで亡くなった時は、歌舞伎の舞台も灯が消えたようだといわれたが、後継者の努力で再び隆盛期を迎えた。
談州楼<だんしゅうろう>
戯作者立川(烏亭)焉馬<えんば>の本所相生町の住居は、屋根から家具にいたるまで三升の紋をつける程、熱狂的な五代目團十郎のファンだった。音<おん>を似せて談州楼と自ら名乗るくらいで、二人は義兄弟の契りを結び、合作で『五百崎<いおざき>虫の評判』などという戯作をものした。
もっとも、もう一人談州楼がいる。下って明治の噺家、初代談州楼燕枝<えんし>だ。春風亭柳枝の弟子で五代目と焉馬との故事にならい、贔屓役者九代目團十郎を対象に明治18年、談州楼の名乗りをあげた。芝居噺が巧かったという。
団十郎切手<だんじゅうろうきって>
戦前は考えられぬ事だが、昭和25年、これも当時の風潮か、文化人切手といって森鴎外や野口英世の肖像が切手になり、九代目團十郎も和服姿の素顔で発行されている。由縁の江戸紫、しかも命日の9月13日に発売という、粋なお役人もいたもの。
昭和25年だから8円切手である。推挙理由が、新時代文化への関心・創造、俳優の地位向上とある。新時代に適応した舞台をと努力しながら「活歴」と白眼視された体験を持つこの人の苦労が、一面報いられた事にもなり、地下の故人は苦笑しながらも嬉しかったろう。
なお、団十郎切手といえばいえるもう一枚がある。
写楽の描く「竹村定之進」(『恋女房染分手綱<こいにょうぼうそめわけたづな>』)モデルは五代目團十郎だ。息子の海老蔵に六代目を継がせ、自分は鰕蔵<えびそう>を名乗った後で、ちなみにこちらは昭和31年発行10円切手だった。
団十郎娘<だんじゅうろうむすめ>
俗に『近江のお兼<おうみのおかね>』と呼ばれる舞踊である。七代目團十郎が文化10年に近江八景になぞらえた八変化<はちへんげ>の所作事<しょさごと>の中の一つ。八代目も九代目も踊っている。琵琶湖のほとりに、大力の娘がいて、荒馬を下駄ばきのままとり抑<おさ>えたという言い伝えを長唄舞踊にしている。
〜色気白歯の団十郎娘」
と唄われたり、荒事の振りも一寸見せたりする。
今日<こんにち>は、皆女形<おんながた>が踊るが、本来に戻り、荒事むきの立役<たちやく>が演じたらと思うが。
力紙<ちからがみ>
力士が土俵の東西で身を清める時使う紙、山伏神楽の『荒舞』の指に結ぶ紙、どれも力をあらわす時に使うのと同じく、歌舞伎でも主として荒事役の髪飾りである。『暫』の主役、「押戻し」「朝比奈」。
真黒な髪の頂きに、ぴんと空へ向かう突き出た純白の紙は、清々しい力を感じる。
見るたびに御神酒の口へ飾る奉書紙<ほうしょがみ>を連想させる。
天覧劇<てんらんげき>
古くは初代中村勘三郎<かんざぶろう>が、禁裏<きんり>で『新発意太鼓<しんぼちたいこ>』を天覧に供したという記録もあるが、一般には、明治20年麻布にある当時の外務大臣井上馨邸の仮設舞台へ明治天皇及び皇后皇太后が御臨席、歌舞伎芝居を御覧になったことをいう。
九代目團十郎の『勧進帳』他について、天皇のお言葉は「珍しいものを見た。能より判り易い」とあったとか。
この出来事が、俳優の社会的地位向上に大きく寄与した点はいうまでもない。我が国で電気照明を初めて使った舞台史上の画期的な例も見逃せない。
昭和に入っても、天覧歌舞伎は決して数多くはないが、せめて天覧相撲ほどには行われて欲しいと、梨園<りえん>のために願わずにはいられない。
※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一
(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)
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