柿色<かきいろ>
歌舞伎ファンに人気がある「口上<こうじょう>」の一幕で使う役者達の裃<かみしも>は、例えば尾上家が梅幸茶<ばいこうちゃ>(鶯色と薄茶の溶け合ったような色)を使うように、各々家の色をあらわすので、様々な色彩が入り乱れ一種独特の華やかな雰囲気に包まれる。
二代目團十郎が『暫』の主人公で素袍<すおう>に使ってから柿色は荒事の色であり、市川一門のカラーとして裃には必ず使用する事となっている。それ以前はあまり見なかったこの色は山伏修験者の帷子<かたびら>にあり、祖先との関わりを思わせる。
山梨県人は甲州名産柿の色だと主張するのも微笑ましい。
景清物<かげきよもの>
團十郎代々で四代目という人はやや異質の人であったらしい。
神経質で長身・面長、この身体的特長は純粋の荒事役者を要求される市川宗家の人間としてはやや不利である。
二代目團十郎の実子という説もあるが、松本幸四郎を襲名したこともあり、一応松本家から市川へ養子となり、自己の芸風に悩み、実事<じつごと>・敵役<かたきやく>に活路を見出す。とりわけ景清物を得意とした。源氏を恨む平家の勇者悪七兵衛景清は、捕らえられて獄中で妻子と対面したり、牢破り等、今までの単純な荒事とは一味違った効果を工夫したのだろう。顔のつくりも筋隈<すじぐま>に墨隈<すみぐま>の髭をつけるなど、実悪の心が加わる。後にこの役も市川家の重要なものとして扱われる。
七代目が天保の改革で江戸を追放になり7年振りで帰って来た嘉永3年、河原崎座で『難有御江戸景清<ありがたやおえどのかげきよ>』を演じ、自分の復帰を景清の再現になぞらえ、ひそかに誇りとしたようだ。
活歴<かつれき>
「活歴史」が語源。明治11年の事、河竹黙阿弥の『二張弓千種重藤<にちょうゆみちぐさのしげとう>』通称「首実検<くびじっけん>の実盛<さねもり>」を九代目團十郎が上演した時、擁護派、依田学梅曰く「時代物はすべからく生きた歴史であるべき」と力み、反対派、仮名垣魯文は、「それでは、活歴史と呼ぼうか」と冷笑。これが始まり。
歌舞伎を荒唐無稽<こうとうむけい>から救おうと、(父七代目にもその意向はあったらしいが)九代目は史実考証を忠実に試みる。
舞台をつまらなくしたと悪評で、事実その嫌いはあったが、良い影響が皆無とはいえない。幕末、刺戟本位の俗悪褪廃一方に堕ちて行った歌舞伎を、一般社会が見るに堪える方向に直した点は功である。
中で『高時<たかとき>』『大森彦七<おおもりひこしち>』等、今でも人気狂言は残っている。しかし、当時、不入り、批難など九代目に対する抵抗は大分激しく、「お客が三人になっても」と悲壮な決意を語っていたという。
河東節<かとうぶし>
江戸日本橋の魚屋の息子十寸見<ますみ>河東が始めた浄瑠璃節だけに上方出の他流と異なり、一名江戸節といわれる。
市川宗家が『助六由縁江戸桜<すけろくゆかりのえどざくら>』を演じる際、無くてはならぬ伴奏音楽で、京の宮古路豊後掾<みやこじぶんごのじょう>の流れを汲む常磐津<ときわず>、新内<しんない>等、市民へ浸透した節とちがい、上流階級に広まった。
それ故武家の次・三男坊や、旦那衆の遊芸となり、「助六」上演中、口上が「河東節御連中様<かとうぶしごれんじゅうさま>」と敬称をつけて礼をつくす辺りに名残を見る。
市川家以外では尾上家は清元だったり、他の伴奏を使う。
仮名垣魯文<かながきろぶん>
『安愚楽鍋<あぐらなべ>』の作者で最後の戯作者といわれた。
「仮名読新聞」の創立者でもあり、風刺のきいたその批評は、九代目團十郎の新志向に対し、「活歴」と痛烈な一言で表現した。
かまわぬ
「鎌」と「輪」と「ぬ」とを組み合わせた洒落柄<しゃれがら>というか判じ絵で、七代目團十郎が、「累<かさね>」の与右衛門で使ったため流行した模様であるけれどもその以前、もう元禄頃には、町奴<まちやっこ>のような侠気<おとこぎ>を看板にする者はよく使っていた。
しかし、この柄のかもし出す男らしい雰囲気は、荒事の宗家にぴったりで、今は市川家のものと思われている。
似た意図で、菊五郎家の「よきことときく(斧琴菊)」男女蔵<おめぞう>家の「かまいます(鎌ゐ□<ます>)」がある。
河原崎権之助<かわらさきごんのすけ>
河原崎座<かわらさきざ>座元<ざもと>の名。
河原崎座は、江戸三座の一つ森田座の控櫓で、主たる森田座の興行に差支えが生じた場合、すぐ代行できる劇場である。初代は『舞曲扇林<ぶきょくせんりん>』をあらわしたように文筆の才にたけ、作者や役者も兼ねたらしい。各代、興行・俳優とりまぜて勤めている中でも、幕末の六代目が傑物<けつぶつ>で、市村座の金主までした豪放な人。
明治元年、盗賊に斬殺され、後に七代目権之助を相続した九代目團十郎は、その時戸棚に隠れていて、養父の凄絶なうめき声を「湯殿の長兵衛」上演の折り参考にしたという。
この名で最後の興行師となった八代目の実子が、昭和56年に亡くなった四代目河原崎長十郎である。
長十郎という名は、河原崎座の若太夫<わかたゆう>の名前である。
木場の親玉<きばのおやだま>
四代目團十郎の事である。修行講を見てもわかるように、世話好きで、後年深川木場へ引籠ったので「木場の親玉」と呼ばれる。
思い切った行いをする人であった点も一廻り大きな人物と、親玉扱いされたのだろう。
安永5年、得意芸の『菅原伝授手習鑑<すがわらでんじゅてならいかがみ>』の松王丸を一世一代で演じた千穐楽の日に、髪をおろして随念と名を改め引退し家人をびっくりさせた。
杏葉牡丹<ぎょようぼたん>
杏の葉を二枚左右から抱きあわせた形が杏葉、その下へ牡丹。今は、助六の衣裳で見られる團十郎家の替紋<かえもん>。
ドラマでお馴染みの江島生島事件に、当時二代目團十郎も連座しそうになった。その原因の一つとして、近衛家の替紋「杏葉牡丹」の付いた御下賜品を江島から二代目が拝領して問題となる。
時の奉行の頓智<とんち>で、これは市川家で使用する替紋と言い逃<のが>れ、罪をまぬがれた。
金平浄瑠璃<きんぴらじょうるり>
これにヒントを得て、初代團十郎は荒事を創始したといわれるが、その起源が上方なのが面白い。
坂田金時の子、公平が主人公である勇者物語だから、ルーツは謡曲などになった「酒呑童子<しゅてんどうじ>」物からの流れだろう。
当然、大江山つまり京都が発祥地で、これが江戸へ来ると様変わりして、力強い豪傑を中心の話となり、後年上方へ逆輸入された例さえある。
その頃の「傾<かぶ>き物」である町奴に代表される人々の気風は、新しい刺戟と熱気とを求め、これを語る堺町の人気者桜井丹波掾<たんばのじょう>などは、鉄の棒で拍子をとり、人形の首をひっこ抜いて演じたというから、すさまじい。
最近上演された『極付幡随長兵衛<きわめつきばんずいちょうべえ>』の劇中劇に『公平法問諍<きんぴらほうもんあらそい>』があったものの、筋は兎も角、実際はあんな穏やかな舞台ではなかったろう。江戸300年の夜明けには、まぶしく強烈な光が必要だったのだ。
車鬢<くるまびん>
髪の毛を油で固めて蟹の足のように左右へ張り出した鬘<かつら>で『暫<しばらく>』の主人公など、片側五本足にしてあると五本車鬢と呼ぶ。
この鬢をやや柔らかく後の髷<まげ>へ廻しかげんにすると、世話物「鈴ヶ森<すずがもり>」の長兵衛みたいに男伊達<おとこだて>を売る人々に使う。
怒髪<どはつ>天をつく、ではないが心身共に激しい勢<いきおい>を現わす。
劇聖<げきせい>
歌舞伎界広しといえども、この語があてはまるのは、九代目團十郎の他には無い。名人、上上吉、等と歌舞伎役者の賞め言葉は昔から多かったが、「劇聖」という如何にも明治の匂いのする表現、又その時に生まれあわせた運命、そしてこの人の努力が「聖」にさせた。
元祿見得<げんろくみえ>
戦前、浅草の観音様境内にこのポーズをとった九代目團十郎の『暫』の銅像があった。
おかげで関東大震災の炎は「しばらく」と止められ、観音様は焼けなかった。戦争中、軍の命令で金属製品供出の犠牲になって姿を消したから、戦災では浅草寺も焼失した、と浅草っ子は憤慨していた。
左手を太刀の柄<つか>にかけ、右手は頭の辺りに握り拳でかかげ、左足を前へ踏み出す荒事の典型的な見得。『勧進帳<かんじんちょう>』の弁慶は、右に巻物、左は数珠<じゅず>。『車引<くるまびき>』の梅王丸は、幕切裏向き。腰の安定を第一とする。
(*九代目團十郎『暫』の銅像は、昭和61年浅草寺境内に復元されました。:團十郎事務所追記)
口上<こうじょう>
筋肉の躍動を以って得意芸にすると思われている荒事の総本山市川家が、もう一つ雄弁術に優れている事も忘れてはならない。
「口上」という役者と観客との親近感を増す話術の一幕は、それだけでも江戸っ児に愛される團十郎代々には有利であった。五代目のように、息子の海老蔵へ六代目を襲名させ、自分は鰕蔵<えびぞう>と改名しての口上が大評判になって、それを目当ての客が押し寄せた話もある。
明治になって、五代目菊五郎が亡くなった直後、息子にすぐ六代目を名乗らせ、その折りの九代目團十郎の声涙<せいるい>くだる名口上は近世の絶品とされる。
訥弁<とつべん>のように思われた十一代目も、昭和40年3月歌舞伎座で、七代目幸四郎追善興行に、故白鸚<はくおう>、松緑<しょうろく>と三人兄弟が、素の紋付袴姿で口上に並び評判になった覚えがある。
その時、共に出演した両弟がびっくりする程、團十郎の口上はユーモアあり弁舌爽やか、やはり宗家と感心させられた。
蝙蝠<こうもり>
中国では正月に、文武二神の聯<れん>(一対の柱掛)を門神として飾るが、それにはよく牡丹の絵が見られる。不思議なことに何代目かの團十郎の画像が門神として中国で祭られている話を聞いた。
蝙蝠は、中国で富貴の象徴とされている。自分の家のしるしの一つに加えた團十郎家は、他に牡丹の紋どころ、隈取りの起源、どうも中国の影響が強そうだ。
「源氏店<げんじだな>」の舞台では、蝙蝠安<こうもりやす>が与三郎に対し、自分の頬の彫り物と、相手の疵<きず>とにひっかけて「三筋<みすじ>に蝙蝠は、のがれぬ仲だ」と、市川家の柄<がら>づくしをしゃべっている。
菰の十蔵<こものじゅうぞう>
初代團十郎の父親、堀越十蔵(重蔵とも書く)の事。
人望もあり、人の世話もよくし、土地の「地子総代人」、今の区会議員ぐらいには扱われていた。顔に傷があり、「面疵<つらきず>の重蔵」とも呼ばれた。
五郎<ごろう>
「成田屋が、対面を出すそうだ」
「して、五郎の役は」
これだけで江戸時代には笑い咄<わらいばなし>となっている。
今の人は、何だか見当がつかぬかも知れないが、当時、曾我五郎の役は團十郎に決まっている程、荒事の総本家の持役だったのだろう。
「五郎」は即ち「御霊<ごりょう>」であり、愛染明王<あいぜんみょうおう>の分身<ふんじん>、人間社会を超越したスーパーマンという信仰があったようで、市川家は初期に『成田山分身不動<なりたさんふんじんふどう>』とか『分身鏃五郎<ふんじんやのねごろう』とかいう芝居をよく上演している。だから、助六実は曾我五郎時致<ときむね>という設定には、深い意味が籠められている。
※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一
(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)
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