まさかり
鬘<かつら>の呼び名だが、普通は敵役<かたきやく>の中に多くみられる。
例えば「阿古屋<あこや>」で岩永、『暫』の腹出し連中、ところが「口上」では、市川宗家及び一門が鬢<びん>の趣<おもむき>を変えて、この形を使う事になっている。
さてそうなると、その姿が颯爽と見えて来るから不思議だ。髷<まげ>の部分が「まさかり」に似て、前田家お抱えの火消し加賀鳶<かがとび>の結った髪形でもあるくらい本来は粋<いき>で男らしいものだ。
なお市川家では、宗家が、「油付まさかり」、一門は「袋付まさかり」を使う。
三筋格子<みすじごうし>
三升格子ともいわれ、くっきりとしたストライプの交叉が新鮮な、昔も今も人の好みに変りはないとみえ、江戸時代、男性の間でまたたくうちに流行した人気柄である。
これへ蝙蝠を添えて、共に自分の所の模様だから、市川家の柄とデモンストレーションした品が出来た例もある。
三筋の起こりが、三升にある点はいうまでもない。
三升<みます>
大中小、入れ籠<いれこ>になった三つの升形<ますがた>で、世間によく知られた図柄だが、ヒントは初代團十郎が不破伴左衛門の衣裳にある稲妻からとったとか、その役に添え柄としたとか、諸々の説もある。
しかし、その初代の父堀越重蔵と親友だった侠客唐犬十右衛門(初代の幼名海老蔵の名付親)から初舞台に贈られた三つの升にちなむという話をとりたい。役者と侠客、義理と人情、ありそうな事だ。
一門は三升の中に頭字を入れる。左團次は「左」を、段四郎は「段」を。團蔵はどうすると聞かれ、これは困った。縦長<たてなが>三升か、丸に結柏<むすびがしわ>が答。
三升屋二三治<みますやにそうじ>
七代目團十郎贔屓で、落語にも出て来そうな道楽息子だったが、その遊びは無駄にはならず、今歌舞伎舞踊のドル箱になっている清元の『落人<おちうど>』『神田祭』『お染』、長唄の『五郎』『鳥羽絵』、皆この人の作詞である。
おまけに、狂言作者の毎月の仕事を記述した「作者年中行事」や、その人達の逸話を集めた『作者店卸<たなおろし>』を書き残して、どれほど後世に役立ったか知れない。
何しろ浅草瓦町の札差<ふださし>の子に生まれ、團十郎の世話で狂言作者になったが、その披露パーティを料亭で盛大にやり、家を勘当になってしまった人である。
三升屋兵庫<みますやひょうご>
歌舞伎で台本がしっかりと戯曲<ぎきょく>の体をなしたのは元禄以降で、それまでは、まず口頭の打合せによる口立て<くちだて>、やや進んで一座の座頭<ざがしら>役者が作者の代りをするようになった。
初代團十郎は、三升屋兵庫の名で、『成田山分身不動』や『参会名護屋<さんかいなごや>』等を創る。
剥身隈<むきみぐま>
目頭の下部から目尻へ、そして眉尻へ「アオヤギ貝」のむき身に似た紅隈である。助六、「対面」の五郎、いずれも市川宗家得意の役々に用い、一番単純だが、若さと力とを象徴している。
二代目團十郎が、初代の真赤な隈取に対し、色気をもった「やつし」の味を加え、新意匠と賞められた。
目玉<めだま>
言葉は紅隈<べにぐま>に似ているが、こちらは初代團十郎の工夫で、手足や顔全体を紅殻で塗り潰すので、近頃は「腹出し」のような端役<はやく>にややその傾向が見出せる。初代は『暫』の主役をも、この顔で演じたという。その舞台を「元禄暫」といったのも、この化粧法から。
紅隈<べにぐま>
先日成田山に行った時、七代目團十郎の軸があり、その賛に眼玉堂白猿とあった。それ程七代目は目玉が大きかったらしいが、幼名を小玉といったから可笑しい。
役者の中でも筆まめな事第一で、方々への長文の手紙を出したが、仮名の「め」の代りに目玉の絵を書き入れたくらい、自分で大眼玉を認めていたのだろう。
その子八代目・九代目と、いずれも睨みの効く骨相<こっそう>は市川宗家に持って来いだ。
六代目菊五郎は、幼児期に九代目團十郎を「めえめえじいちゃん」と呼んだという。
幸い十一代・十二代共、良い大眼玉の後継者、当家にとり何よりである。
※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一
(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)
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