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團十郎事典 は行
は行目次
は: 栢莚 はくえん 白猿 はくえん 幡谷 はたや
ひ: 光源氏 ひかるげんじ
ふ: 舞曲扇林 ぶきょくせんりん 不動見得 ふどうみえ
へ: 紅殻隈 べにがらくま 紅隈 べにぐま
ほ: 反古庵 ほごあん 堀越家 ほりこしけ
栢莚<はくえん>

 二代目團十郎がその子に三代目を譲り海老蔵となってからの俳名。
 由来が面白い。陰陽道<おんみょうどう>でいう五行<ごぎょう>、つまり木・火・土・金・水のうち「木」にあたる生まれの二代目は、120歳まで延命をと、「木、百、艸(即ち二十)、延」を組み合わせて名ができた。
 文人と交わりが多く、教養の深かった栢莚は、書画、骨董に関して『栢莚含事録』を出す程である。
 四代目は、へり下って「一」文字を抜いて「柏莚<はくえん>」を自分の俳名とした。

白猿<はくえん>

 清元の『落人<おちうど>』で、お軽<おかる>が勘平<かんぺい>の顔を惚れぼれみて、
 ?その悪縁か白猿に、よう似た顔の錦絵」
というのはこちらの「はくえん」である。この踊の初演は八代目團十郎なので、父七代目の俳号白猿を洒落たのだ。
 もっとも、これは七代目の祖父五代目團十郎が初めて用い、二代目、四代目と音<おん>は同じくしながらも、父祖のように名人上手に及ばず、毛が三本足りない「白猿」と称し、口上にも述べた。
当時の文人に知己が多いのに、自分の句や随筆の本を「友なし猿」などと皮肉な題名をつけている。

幡谷<はたや>

 たしか無声映画の頃と聞いたが、市川幡谷<いちかわはたや>という渋いスターがいたと母が話した。子供心に変な芸名だなあと思った記憶がある。しかし、この名には深い意味を含んでいる。
甲州武士といわれる團十郎家の祖は北条の家臣とみられ、小田原落城後、下総国<しもうさのくに>埴生<はにゅう>郡幡谷<はたや>村に移り郷士<ごうし>となり、初代の父重蔵が土地を弟に譲り江戸へ出た。幡谷は成田から一里半、今はゴルフ場で有名になった。

光源氏<ひかるげんじ>

 荒事を守備範囲とする代々の團十郎中、二人だけは二枚目風の持味を、より喜ばれた。
 八代目と十一代目である。
 花のうちに惜しまれて散った事も似ているが、更に偶然か、興味のある共通点を持っている。
 八代目は、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏<にせむらさきいなかげんじ>』を原本とした清元<きよもと>の舞踊劇を嘉永4年に初演した時、光源氏になぞらえた「光氏<みつうじ>」の役をしている。
 十一代目は、戦後昭和26年、日本で初めて公<おおやけ>に『源氏物語』を大劇場の舞台にのせた際、光源氏を演じ、圧倒的な人気を博した。天国で一緒に光源氏論を語っているだろうか。

舞曲扇林<ぶきょくせんりん>

 300年も前に書かれた歌舞伎と舞踊との研究書。
 初代河原崎権之助が長年かかって創り上げた、絵入り二巻本である。
 特筆すべきは、歌舞伎の祖を、出雲のお国ではないとしているユニークな意見。
 その末裔<まつえい>で、昭和56年に亡くなった元前進座の四代目河原崎長十郎が、昭和45年から、演劇研究の個人雑誌を43号まで出した際、『舞曲扇林』と名付けたのは、故人の心意気を感じて、胸打たれるものがある。

不動見得<ふどうみえ>

 弁慶が勧進帳を読み終え、
 ?天も響けと読み上げたり」
 と極まるのが不動の見得。
 右手に巻物を立てて構え、不動明王<ふどうみょうおう>の剣に擬し、左手は胸元に数珠を握り、これは羂索<けんさく>の態である。羂索とは、早くいえばロープで、本来鳥獣を捕えるものだが、不動様は五色の線入りに環をつけ、もう一方には金剛杵<こんごうしょ>を備えた品だ。
 五郎が愛染明王の分身なら、荒事の他の主人公は不動明王の分身とみる例が多く、不動の像を画く心得は「忿怒<ふんぬ>の勢を持つ童子」、即ち荒事のそれ。

紅殻隈<べにがらくま>

 言葉は紅隈<べにぐま>に似ているが、こちらは初代團十郎の工夫で、手足や顔全体を紅殻で塗り潰すので、近頃は「腹出し」のような端役<はやく>にややその傾向が見出せる。初代は『暫』の主役をも、この顔で演じたという。その舞台を「元禄暫」といったのも、この化粧法から。

紅隈<べにぐま>

 藍<あい>や墨の隈は、暗い邪悪・妖性をあわらすのに対し、紅隈は、明るい正義、勇気の象徴である。
 論じるまでもない、市川家に縁が深く、荒事の主人公に欠かせない。そもそも今我々が見る隈は、多く初代・二代目團十郎を中心に、同時代の役者達の創始であろう。
 京劇のメークアップ臉譜<れんぷ>や能面の影響もあったろうが、紅隈のぼかしは、牡丹の花びらからヒントを得た、という美しいエピソードがある。

反古庵<ほごあん>

 病気がちで、晩年殊に弱気になった五代目團十郎は、客へむかい、「この年齢になって、普通なら隠居となる身を鏡台前で白粉<おしろい>をつけるとは」と嘆いた。寛政8年引退し、本所牛島に「反古庵」を作り風流の道へ入り、成田屋七左衛門となる。
 この庵で俳諧の会を催し、会半ばで永眠したという。
 辞世の句は、
 「凩<こがらし>に 雨持つ雲の ゆくへかな」

堀越家<ほりこしけ>

 私達のその近くに生まれた者は、子供の頃よく遊び場所にしていた旧都電停留所「築地二丁目」の前に古めかしいが由緒<ゆいしょ>ありげな長い塀があった。両親を含め、近所の人は、その辺りを道案内する時、目印に「堀越」と気安く呼んでいた。梨園で通り名、「築地」の市川宗家は、ここである。
 この名前につき、興味のある話を海老蔵氏(現團十郎)が語った。甲州武士と察しられる当家の先祖は、お城の堀を越した所に住んでいたから、この名がついたそうで、との事だった。
 明治になって、時の風潮もあり、役者がお互いに本名を呼びあうようになった。
 しかし、私にとっては「堀越」と聞くと今でもあの長い塀が目に浮ぶ。

※昭和60年1月発行 演劇出版社『演劇界増刊 市川團十郎』より転載。
編:藤巻透、イラスト:椙村嘉一

(昭和60年十二代團十郎襲名当時の記事ですので、若干時間を経てしまった内容もありますが、
極力当時のままの文章で載せさせていただきました。
転載をご快諾下さいました関係者の方々に、この場をお借りいたしまして厚く御礼申し上げます。)