生まれて7日目に河原崎座<かわらさきざ>の座元<ざもと>河原崎権之助<ごんのすけ>の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。
嘉永5年(1852)9月、河原崎権十郎<ごんじゅうろう>と改名。その前後は、河原崎座の若太夫<わかたゆう>として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積んだ。
嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。
その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失ったため、安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなり、やがて大役を演ずるようになる(20歳)。
明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭<ざがしら>の地位に座った(32歳)。
明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎<ふくじろう>に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升<さんしょう>と改名(36歳)。
明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となった。
明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。
明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変えたり、写実主義的な「活歴物<かつれきもの>」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41歳)。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買う。
明治20年(1887)天覧劇<てんらんげき>として、明治天皇の前で『勧進帳』『高時<たかとき>』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。
新歌舞伎十八番(その数は18種に限定せず、実際には32種とも、40種ともいう)を制定。
明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。
九代目が活歴時代に創造した「肚芸<はらげい>」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、古典歌舞伎の役の創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えた。それ以外にも「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を、現代歌舞伎に残した。
明治36年(1903)9月13日没(66歳)。